難関大学に入ること、難関資格を取ることの価値。環境が自分を変える。

学習・効率化

「勉強ほど手っ取り早く年収をアップできる方法はない」

いつだったか分かりませんが、Twitterを眺めていた時にこんな呟きを見つけました。

私自身もそう思っていますが、昔は勉強なんてクソくらえって感じでした。

むしろゲームばかりやっていたので、体調不良で学校を休んでも「ゲームしてたでしょ」と友達に言われていたほど。

「あんなに勉強嫌いだったのに何で変わったの?」と家族や中学時代の友達によく言われるのですが、その理由を考えてみると環境の変化が一番の要因だったように思います。

「この先、生きていけない」

勉強に意識を向けるきっかけとなったのは高校時代です。

中学時代の成績が宜しくなかったため進学校とは程遠い公立高校に進学したのですが、学習内容・授業進度が進学校に比べて著しく劣っていることが分かりました。受験を意識した学校ではないので当然です。

中学時代は「頭が良いやつは勉強が好きなんだ」、「勉強できなくても何とかなる」なんて楽観的に考えていましたが、同じ高校でもここまで学習する内容にレベルの違いがあるなんて思いもしませんでした。

それを知ってからというもの「この環境に馴染んだらこの先、生きていけないだろう」と本能的に痛感し、必死で勉強に向き合うことを決めました。

以前の記事で書いたとおり、勉強の仕方というものを知らなかったので全て空振りに終わりましたが、それでも「勉強することは自分を守ることなんだ」と思えたことは今に生きています。

同じ大学・学部なのに圧倒的な差

時は進み、浪人したもののなんとか私立大学に入学することができました。ただ、そこでも高校時代と同じくらいの衝撃受けることになります。

同じクラスの人たちは偏差値60超えの高校や、内部進学生ばかり。

大学受験というペーパーテスト対策をしただけの人間とは地頭の良さも、教養の深さも、勉強に対する姿勢も何もかも違いました。

クラスの友達が話す内容に全くついていけず、試験以外のことも学ばないと同じレベルで会話することができないという事実に気付きます。

そこで、話題の目線(?)を合わせるために、内容が分からずともクラスで話題になっている書籍を読み漁るという日々を送るようになりました。

今振り返ってみて、大学時代に読んでいた本の内容を全く思い出せないのでこれも空振りに終わっているわけですが、本を読むという行為が今苦痛に感じないのはこの日々が生きているからだと感じます。

監査法人で一層感じた能力差

大学時代に勉強を始め、卒業してから1年半後に公認会計士試験に合格することができました。

「これで憧れの会計士ライフ!」なんて甘いことを考えていたのですが、監査法人に入ってみると周りは頭の良い人だらけです。先輩も、同期も、後輩も。

勉強の日々は覚悟していたものの、想像以上に勉強・仕事内容の吸収を求められることが多く、この仕事の過酷さを実感しました。

また専門家として仕事を請け負う以上、勉強を継続していくことは当然の責務ですし、自分よりも全然年下の同期がとんでもない成果を出している事実を前にしたら尚更勉強をサボる訳にはいきません。

独立当初、「勤務時代はよく頑張ってたなぁ」なんてことをひっそり思っていたのですが、今はそれだけやっても勉強不足だったことを痛感する毎日です。

それでも、忙しい時でも自己学習するということに対してそこまで辛さはありません。これも監査法人時代の経験が生きているのでしょう。

 

 

環境を変えれば全てが変わる、なんてことは言いませんが、人間は環境に適応する能力があるようです。

そのため、「学歴なんてゴミだ!」みたいなことが言われている現代であっても、私はすこしでも難易度の高い試験に合格するということ自体に価値はあると思っています。(勉強しかできないのは微妙ですが…)

なんてことをふと思いました。